[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
横尾忠則《Pantanalの精霊》1995年 作家蔵(横尾忠則現代美術館寄託)人は未知のものに対してしばしば恐怖を抱くが、それは好奇心と表裏一体であり、「怖いけれども見たい」という曖昧な感覚が生じることになる。企画展「横尾忠則の恐怖の館」では、イラストレーションや絵画などの横尾作品を通して、芸術と恐怖の関係性について探ってゆく。『江戸川乱歩全集』挿絵を用いたインスタレーション
横尾忠則《白昼夢 江戸川乱歩全集(講談社)挿画》1968年 横尾忠則現代美術館蔵見えるものや科学的に説明できる領域の外にあるものは、横尾の関心のひとつであり続けてきた。それが色濃く反映されている例が、講談社版『江戸川乱歩全集』の挿絵である。鋭い描線と鮮やかな色面から構成される挿絵は、必ずしも小説における特定の場面を描写するものではなく、想像力が自由に発露する独立した美術作品であるとさえいえる。本展の導入部分では、これらの挿絵を用いて、お化け屋敷をイメージしたウォークスルー型のインスタレーションを展開する。ポートレートと「死」
横尾忠則《葬列 I》1969-1985年 横尾忠則現代美術館蔵ポートレートは横尾作品における重要なのひとつであるが、それは常に「死」と結びついている。たとえば版画作品《葬列》は、ジャック?ドレーの映画『太陽が知っている』における葬列シーンの写真を色分解し、6枚のアクリルクリスチャンルブタンスーパーコピー板に分けて刷り、間隔をおいて重ね合わせることで、版表現自体を主題化している。また、この方法論を展開させた「風景」シリーズでは、人物の顔などをモチーフとしつつも、モデルから個性や人格を抜きさったオーデマピゲスーパーコピーかのように、不気味な画面に仕上げられている。横尾独自の「死」の捉え方
横尾忠則《交叉の泉(部分)》2002年 横尾忠則現代美術館蔵横尾は自らの作品において、一貫して「死」の問題を扱ってきた。年の離れた養父母に育てられ、彼らが他界する不安を抱えてきた横尾にとって、「死」とは幼少期から身近なものであったのだ。本展では、横尾が敬愛するフェデリコ?フェリーニ監督の映画『アントニオ博士の誘惑』からとった女優アニタ?エクバーグの立体作品《交叉の泉(部分)》や、《業》といった絵画作品など、横尾独特の死の捉え方から生まれた作品を展示する。「闇」の表現
横尾忠則《黒いY字路 1》2010年 作家蔵(横尾忠則現代美術館寄託)豊かな色彩感覚を持つ横尾は、その対極にある「闇」にも深い関心を寄せてきた。横尾が生まれ育った西脇は、兵庫の山間部に位置する地方都市あり、幼少期にはいたるところに深い闇が存在していた。2000年以降のライフワークである「Y字路」シリーズは、大都会では失われた闇を故郷で再発見したいという意識から生まれたものであった。会場では、美術館が廃墟化したかのような演出のもと、《黒いY字路 1》や《霊骨》など、闇や終末をめぐる横尾の表現を目にすることができる。展覧会概要企画展「横尾忠則の恐怖の館」